AOZOLA

T・SANO

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わが青春(後記にかえて)

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八月十日土曜の夜八時、二階の自室に行こうと階段をのぼったとたん、突然、心臓が破れるかのような痛みに襲われた。恐怖にかられながら階下へと戻り、妻に告げ、救急車で病院に搬送され、以来二ヶ月余いまだに自宅療養の身である。今後癒えるわけでもなく、いつ発作が起きるかも分からないとの医師の言葉に、死の影に怯えながら日々を生きている。
こうした日常の中で、つくづくと考えさせられたのは、自身の生きてきた過去のさまざまであった。2013年秋、六十四歳。妻を道連れの、おおむね辛い人生であったと思う。年齢にして二十代半ば以降の人生である。

四十年前、逃げるがごとくふるさとをあとにし、夜行列車を乗り継いで妻とともに翌朝降り立ったのは、雪ふる東北の地方都市であった。宛てもなく、ただそこが、当時わたしが傾倒していた宮沢賢治の描いた「イーハトーブ」の地であるというだけの理由であった。精神病院の看護助手として職を得て、間もなくわたしたちはひとり娘を授かった。脳に障害を持ち、生後数ヶ月で脳手術を受け、半身不随の身となる。妻の苦悩ははかり知れず、苦悩が苦悩を呼び起こしたのだと、わたしは思った。
およそ七年を経て、ひとり娘が養護学校に入るのを機に、ふるさと愛知に帰る。そしてその後の三十年も、決して心平らぐものではなかった。養護学校の近くの鉄工所に職を得たのであるが、常に貧しく、低い収入は、生活からいつしか希望を奪った。
九年後に職を辞し、わたしは肝炎を患い、生死の境をさまよい、職無く二年余を過ごしたのち、病みつきの身体でかろうじてその後の二十年を働き得たのである。こうしたおよそ四十年の過ぎ行きが、わたしの人生であった。二十歳の頃夢見た壮健な人生からすれば、みすぼらしいの一語に尽きる。
そしていま、病み衰え、死の不安の中で、日々少しずつ、拙い言葉をたどたどしく連ね、心身を削る思いでこれを記している。もし仮に、最後の審判者なるものが存在し、わたしの苦が、わたしが犯した罪の咎であるというのなら、それはそれでもっともなことであろうし、またこの苦から、今はもう逃げ出したい、死んで楽になりたいとも、ふとそんな無責任な思いがよぎりもする。しかし、麻痺の身のひとり娘のこと、年上の妻の老い、それらを思うとき、癒えることを切に願うのである。過去書き留めておいたものを整理しておきたいと思ったのは、こうした錯綜した心境の中でのことであり、とりあえず青春編とでもいうべきものを、ここにまとめた次第である。

わたしが迷いも無く青春と呼ぶ時がある。「Youth is not a time of life……」と謳われた青春は、立ち向かう意志、情熱、希望、自らを信じる力を心の証とする。この意味でわたしの青春は、かのイーハトーブの地に始まったのである。ただしわたしの心は、さまよう魂のはかない意志であり、弱々しく燃える青白い情熱であり、絶望の湖に浮き沈みする淡々しい希望であり、所詮才覚のない人間の哀れむべき自己過信であった。
この小作品集「AOZOLA」は、そうしたわたしの青春の心象の記録である。およそ十年、年齢にして二十七歳から三十六歳までの作品であり、補遺を含む短歌百七十首ほどと短篇一で成り立っている。あまりに少ない作品数は、そのままわたしの才の乏しさであるといってよい。

本書の構成は、短歌その一、同その二、短篇一と、大きく三つに分かれている。短歌その一は、遠くイーハトーブの地、岩手県盛岡市に住み、精神病院に看護助手として働いていた頃の作品である。同その二は、ふるさとに近く、愛知県小牧市に住んで、断截機メーカーに組立工として勤務していた頃の作品である。
短歌については、歌誌「アララギ」及び読売歌壇(土屋文明、田谷鋭、岡野弘彦各氏選)に載ったものを基本に編集をしている。
また短篇は、短歌ではあらわし難いテーマを、短歌の延長線上に散文で表現したものである。この点で、一般の小説とは異なる。短歌その一における精神病院を舞台に、運命の不条理と残酷を描いたものであるが、構想と執筆は、経験を客観視しかつ物語風に仕立て得た小牧市において為したものである。この狂気とも言える悲劇を仕上げたのち、わたしは深い挫折感と絶望感とで、短歌を捨て去るごとく離れることになる。
ともあれ、短歌との出会いがなければ、わたしの人生のおおよそは、わたし自身により忘れられ、消え果ているにちがいない。もっともわたしごときの人生、忘れ去り、消え果てたところで、どうということもないとも思われるが、やはりいとおしむ気持ちはある。同様に短歌との出会いも、わたしにはやはり感謝すべき出来事であったと思う。この稿の最後に、少し詳しく、書き添えておきたい。

以下は、作品の背景となっている岩手県盛岡市及び愛知県小牧市での生活の概略を記したものである。

歌を詠み始めてからのおよそ五年間、盛岡での生活は、苦しく貧しいものではあったけれど、そこはかとない希望があり、淡く透明な明るさに包まれていた。
脳手術を受けた娘について言えば、わたしなどは何も為し得ず、すべては妻の手に委ねざるを得なかったというのが、真実であろう。気丈な妻は悲嘆にくれる隙さえ見せず、娘の命を自らの命として、生きる意志の塊となって、術後の看護にひたすら尽くした。
実のところ、娘の脳手術は成功とは言い難い結果に終わり、半死半生半覚醒の状態であったところを、医師の強い反対を押し切り、妻は自宅看護の道を選んだのである。そして信心にも似た気持ちで、食による養生法ひとすじに努めたのであった。
こうして、娘の死をも覚悟した妻の必死の看護により、まことに僅かずつ、娘の容態は生命へと向かったのである。むろん半身麻痺という身ではあった。それでもわたしたち親にしてみれば、首がすわり、這うようになり、ある時に立ち、またある時に歩んだと、日々年月を重ねるごとに、喜びと希望とに恵まれたのであった。
そして盛岡を去る少し前、妻とともに娘が洗礼を授かったことも、恵みであった。妻の洗礼名は「マルタ」、娘のそれは「ちいさき花のテレジア」。ふたりにふさわしい洗礼名であると、わたしは今でも思っている。
娘の成長は、わたしたちの家庭生活にささやかながらも希望をもたらすものであった。これに反し、わたし自身の職場環境は、つまり精神病院の重度患者用閉鎖病棟の補助看護士としての仕事は、劣悪そのものであった。現代のように医療システムの整っていない時代のことであり、その状況の一端は短篇「AOZOLA」において記したとおりである。むろん小説風に仕立ててはいる。だが誇張ではない。むしろ本質を描いたというべきであろう。この劣悪さは、結局のところ、暴力沙汰に行き着くのであり、わたしには耐え難い職場であった。
こうした職場になじめず、わたしの心は常に孤独感におおわれていた。しかしわたしは、決して孤立していたわけではない。資格の有無にかかわりなく、ほぼ同世代の看護士の男性らとは、あるべき精神科医療を話題に、よく語り合いもしたのである。表面上の言動は時に粗くとも、たいていの者が心の底では、精神科の看護者という屈折した感情をいだきながら、真摯に考え悩んでいた。
心を尽くして語り合ったのは、看護者とだけではない。入院者らの切実な声を一対一の人間として聞く事も、少なからずあった。答えの無い生の苦しみを告げられ、わたしはただ真向い語り合うしかなかった。彼らの境遇は決して他人事ではなかった。閉ざされた病舎の中に生きる彼らの苦悩は、人生という大きな閉ざされた病舎の中に生きる、わたし自身の苦しみでもあったからである。
総じて盛岡の人々は、ひじょうに陰影の深い人生を生きていたように思う。それはおそらく、賢治の描いたイーハトーブなる地の厳しい自然風土のもたらす根元的な貧しさに起因していたのではないだろうか。生活破綻者あるいは自死に至った人は、わたしの身近にも何人かいたのである。彼らの苦しみは、わたし自身の苦しみと繋がっていた。
このような七年間を今ふり返ると、わたしはただひたすら、真摯に生きていたのだと思う。生活自体はきわめて貧相であったにもかかわらず、しかし誇りだけは保ち、前を向いて根拠のないかすかな希望を胸に、生きていたのだと思う。
わたしは若かった。そして心身ともに健康であった。だが、人生を知らなさ過ぎた。かの地を思い起こすとき、悲しみをひきずったなつかしさがこみ上げてくる。
また短歌との関わりから言えば、厳しくも美しい自然風土を、苦しみと喜びをたたえた彫りの深い人々の生きざまを、充分に歌に詠み得なかった自らの才の乏しさが、今にして思えば悔やまれる。

……こんなことを日々少しずつ書き継いでいて、そのせいだろうと思うが、少しずつ体調を崩し、或る日突然、眩暈と吐き気と少し間をおいて心臓のあおりに襲われる。それでいったん書くのを止めて、一日二日ぐったりとしていると、ふたたび書かなければならないという気力が湧いてくる。それでこのように書き始めるのだが、たちまち頭の中が鬱々としてくる。こうしてまた、心身をすり減らし、生命力を消耗させる羽目になる。……

さて娘の養護学校入学を機にふるさと愛知に帰ったのであるが、当時のわたしの意識をふり返ると、その深層において、或るゆきづまりをすでに予感していたような気がする。ただそうした負の意識を、わたしは見つめようとはしなかった。気持ちをつとめて明るく保ち、希望のある先行きを信じ込もうとしていた。愛知県小牧市に新設された養護学校の近くに居を移し、さらに近くの工場に職を得て、こうして新たな生活に溶け込むことに、わたしたち夫婦は心を砕いたのである。
新たな住まいは、本編の解説でもふれたとおり、築数十年を経た県営住宅の平屋式長屋のうちの一戸であり、いずれは取り壊しが計画されていたが、それまでは格安の家賃で低所得者世帯に貸し出されていたのである。小牧市の北部に位置する団地で、高層の建物も含め全四区からなる、総数千二百戸のうちのひと区画内にあった。
ここに移り住んでわたしたちがまず感じたのは、盛岡市とは段違いの人々の陽気さであった。この陽気さをどう説明したらよいのだろうか。あちらこちらから一戸一戸の生活の音が路地に洩れ、老人が居て遊ぶ子どもらが居て、しばしばヒステリックな叫びや怒鳴り声がひびき、また女性らの笑い声や話し声がする。夕方になれば亭主らが勤めから帰り、やがて夜のともしびが連なり、貧しいながらも総じて日は事も無く過ぎてゆく、といった感じだろうか。小公園がいくつかあり、大通りには店が立ち並び、千二百戸の家族が住む団地は、それだけで小さな町を形成し、そこそこの活気を呈していたのである。そしてわたしたちの新生活は、この奇妙な陽気さの中で始まったのである。。
求職活動においては、あらためて自らの職業能力の無さを思い知らされた。高度な知識も専門技術も技能も無く、営業のスキルも無く、結局は素人工として、低賃金に甘んじる工場勤めしか無かった。とにかく働かなければ生活ができない。その気持ちだけで、中規模企業の断截機メーカーに勤めることになった。齢三十二の、全くの素人工であった。
この会社での現場は、団地と同様、これまた奇妙な陽気さに充ちていた。鋼入りの安全靴を履き、鉄粉の舞う中を鋳物の塊を相手の仕事であったが、年配者も若者も不思議に陽気にふるまい、そのくせきわめて真剣に仕事に取り組んでいた。昔ながらの職人気質もどことなく残っていて、そうした人らの言動は、わたしには新鮮なものに映った。ともかく電気ドリルの使い方ひとつさえ知らなかったわたしには、すべてがゼロからの出発であり、そんなわたしに対し職場の人々はおおむね良き先輩として接してくれた。

……ここ二三日、胃の辺りの具合が悪いと妻が言う。戻しそうになると、血の気の無い顔をして言う。きのうの夕飯のさい、粥をすくう妻の顔が、蛍光灯の灯の下で暗い灰色に見えた。こんな時こそ、家事を少しは手伝いたいと思うのだが、わたしの心臓はじくじくとあおり、とてもまともに動ける身体ではない。食卓を中に、わたしの右はす向かいに座る娘は左半身麻痺の身。向かいに座る老いた妻の顔を見て、わたし自身が情けなくなり、一瞬、こみあげるものがあった。
今日は十二月一日。夕ぐれ近くの薄日の下に、裏山の鮮やかな黄葉は過ぎ、雑木の木立が枯れゆく色の葉をまとっている。中にいっぽん、ほとんど葉を落としてしまった木立もある。布団に身を横たえながら、ただ見ていた。……

こうしてわたしたちの新生活は始まったのであるが、その中で娘の成長は何よりの喜びであった。半身麻痺の身で左足がせん足であるにもかかわらず、不自由ながらも少しの距離なら歩き得るようになっていた。言葉は話せなくとも、簡単な語を発してそれなりの意思疎通もできる。いつも笑顔で、音楽が好きで、言葉にならない言葉で歌も唄う。命さえ危ぶまれていた頃を思えば、養護学校に通うこと自体が、わたしたちには夢のようですらあった。幼い心のまま元気いっぱいに進級を重ね、やがて中学部、高等部へと進んだ。また送迎をする母親たちの親しくなった交わりの中で、自ずから娘の友人関係も形成され、何にんかの友だちもできたのである。娘の存在は常に、貧しいわが家の、涸れることのない明るさの泉であった。

……書き綴っているさ中、名古屋のYさんから妻に電話があり、ご主人が亡くなられたとの知らせがあった。娘の友達のコウイチ君のお母さんで、養護学校で親しくなりお世話にもなった。コウイチ君も、十数年前には亡くなっている。また九州のKさんからは手紙が届いたり、小牧養護で親しくなった人たちと、妻は今でもお付き合いがある。Kさんの子であるカオルちゃんはやはり亡くなっているけれど。三十年が過ぎ、人それぞれにいろんな人生を送っているが、そんな人たちと妻は今でも親しくしている。……

ところで娘の身体について、わたしたち夫婦がひそかに恐れていたことがある。それは、娘の体に挿入されているポンプと管の件であった。頭部に溜まる水を腹部に送り出すためのものであり、医師からは、仮に命ある場合、成長に合わせ、つまり身長に合わせてそのつどポンプと管とを取替えなければならないと、告げられていたのである。
この件については、かねてより妻と話し合ってはいた。再度の手術か、それとも手術に頼らず、天の定めた寿命に従うのか。妻は、娘の頭蓋を再び切り開く耐え難い残酷さを口にし、わたしは妻のその強い思いに頷くほかはなかった。そしていったんそう覚悟はしたものの、胸の奥底では、いつ決断を迫られるのかと、恐れつつ心揺らいでいたのである。
結局、この呪縛から完全に解き放たれたのは、娘がすっかり成長して養護学校を終える頃のことであった。養護学校に入った頃、医師の診断を一度受けている。ポンプと管が機能していないようでもあり、いましばらく様子を見よう、というものであった。以来、不安におののきながらおよそ十年、娘の成長を見守ったのである。その間、おそらく脳が関係していたのであろうが、それまで乗り物酔いにいつも悩まされていた娘が、中学部に入る頃から酔わなくなった。そしてさらに身長が伸びるとともに、わたしたちは、ポンプと管をもはや必要としない、娘の身体が正常なはたらきを回復したことを確信したのであった。今に思えば、もし娘の再手術の決断を迫られていたならば、わたし自身は結局は医者任せで、真の決断は為し得なかったに違いない。わたしたちは、ただただ感謝したのである。

さてこうしてまがりなりにも、ともかくも前向きであったわたしの心は、或る頃から暗転してしまう。いつ何をきっかけにそう思い始めたのか、その時の記憶がまったくない。記憶が抜け落ちている不思議な感覚である。とにかくわたしの心にいつか苛立ちと焦りと、やがて絶望感に近い感情が芽生え、わたしをすっかり覆いつくしてしまった。
移り住んだ当初、わたしの心はたしかに明るい希望らしきものがあった。あれほどに古くみすぼらしい県営住宅も、素人工としての鉄工所勤務も、将来の明るい生活のための布石のように何の根拠もなく、わたしはそう思い込んでいたのである。
ところが、そうした希望らしきものが幻影でしかないといつの頃か(たぶん二三年経った頃であろうが)ふと気付き、現実そのもののこの貧しさが一生続くのかとの思いが、わたしの心を急速に支配し始めたのである。わたしばかりではない。貧しさの中で娘の世話に明け暮れる妻においても、同様であった。「早く死にたい、生きていて何が楽しいの」。そうした妻の呟きを、わたしはしばしば聞かなければならなかった。娘を中心にしたわたしたちの家庭は、明るい笑いを決して失いはしなかったけれど、心の深層では、わたしも妻も暗い悲しみの淵に追いやられていたのである。
この原因を今考え出すと、頭が混乱し、吐き気すら覚えるほど、さまざまな事情が複雑に入り組んでいる。直接の貧しさがあり、貧しさに至らしめた自らの愚かさがあり、愚かさを見つめる惨めさがあり、悔しさがあり、時代背景があり、そしてとどのつまりは生い立ちと、親との葛藤に行き着く。それらさまざまが渦を巻き、わたしの精神を暗鬱たる底へ底へと引きずり込んだ。もはや限界であった。わたしは打ちのめされた。そして短歌を捨て去った。
結局、わたしは敗北者であった。自らの愚かさにやぶれ、生い立ちにやぶれ、親との確執にやぶれ、時代の嘲りを受けて、わたしの大切にしていたものを捨て去ることで、哀れな憂さ晴らしをした敗北者であった。自らの心に築きあげた鉄格子の檻の中で、解き放たれることを求めてあえぎ、悶え、挑むことすらろくにせず、結局は脱出し得ず傷を負い苦しんだ、わたしは敗北者であった。「短篇 AOZOLA」においてわたしが描こうとしたテーマは、まさに敗北者たる自らの無残に他ならなかった。
短歌について今冷静にふり返れば、やはり行き詰まるところに来ていたのだと思う。技巧を知らなかったために、とりあえず水準の歌を詠む、ということができなかった。あるいは、本質的にわたしにはそうした才がないのかも知れない。仮に技巧で歌が詠めていたとしたら、実生活における苦をも歌に詠み込んで、それはそれで作歌を続けていられたのであろう。しかし当時のわたしにしてみれば、生きることと作歌とはほとんど同義のものであり、生きる上で精神的に追い詰められることは、すなわち歌を詠む意義を失うことでもあった。
三十年前の話である。あれほど歌から離れることに悩み苦しんだ筈なのに、その頃の記憶が実感として今のわたしには無い。漠然としてふと思うのは、ちょうど恋に破れた多感な少年が自らの恋心を綴った日記を破り裂き、炎の中に投げ込む心境に似ていたような気もする。そうしてわたしの青春が終わった、とも言えようか。であるとしたなら、他愛なくも、寂しい話ではある。

最後に短歌との出会いについて、ふれておこう。それは、全くの偶然であった。誘われるままに短歌の会に参加をし、短歌に興味を持つというより、その会の人々、たった六七名の出席者のありようになぜかとても心を惹かれた。わたしの親ほどの年齢の人たちの中で、不思議に心が落ち着き安らいだのである。それまで一度も体験したことのない、人に対する感覚であった。わたしにとっては、
まったく新しい人間関係を、そこに見たのである。

その会のふんい気をどう表現したらよいのだろう。中心となる人たちの人格また教養の高さは言うまでもない。だがそれだけではない。全体にほのぼのとした心のあたたかさ、明るさがあった。象徴的な習慣があった。会の終わりにみなで起立し合唱するのである。曲は啄木の詞にメロディーをつけたものであった。それがまたなんとも言えぬ味わいがあった。年を追い賢治の牧歌「種山が原」、「花巻農学校精神歌」とつづいた。まさにイーハトーブの風土と言葉と人と歌とが一体化して響きあう趣きであった。
その後いくつかの歌会、また文芸の会などにも参加をしたのであるが、盛岡の会ほど、人の関わりがあたたかく密な会はなった。最初の出会いが、仮に他の会であったなら、わたしが短歌などを詠むことはおそらくなかったに違いない。四十年近くを経てなお、わたしは深く感謝をしている。
同様のことが、アララギとの関連においても言える。盛岡での師から、すすめられるままにアララギに入会をしたのであるが、当時もし土屋文明なる人物が存在していなければ、わたしの短歌に対する思いは相当に異なっていたであろうと思う。
文明亡き後のアララギは言うに及ばず、少し時代をさかのぼり、たとえ相手が斉藤茂吉であったにせよ、わたしは彼を心の師とは仰がなかったに違いない。むろん歌人としての茂吉から、学ぶべきは学ぶよう努めたではあろうけれど。それほどに、土屋文明はわたしの心を惹きつけた。

文明には、強烈な思い出がある。それまでの土屋文明といえば、盛岡の会で敬愛をこめた噂話を時折耳にしたりする程度であり、写真すら見たこともなく、まったく現実感の無い存在であった。そんなわたしが直接この目で文明を仰いだのは、本文でも触れた、東京アララギ夏期歌会に出席した折でのことである。この会への出席も、一度でよいからと、師からただ勧められるままに参加をしたに過ぎない。盛岡から東京までの三泊四日の旅は、当時のわたしにすれば、費用の面でも、職場での勤務調整の上からいっても、まさに一度だけの機会であった。特に期待することもなく、若さゆえの好奇心程度の関心であった。
第一日目、開始時刻の九時三十分少し前、わたしは会場の前後半ばほどの列の一番左端の椅子に腰を掛け、あらかじめ配布されていた詠草集に目を落としていた。
ふと左の通路に、わたしは人の気配を感じた。会場は十分に広く、わたしの左側を人が行き来してもなんら気にもとめなかったのに、その時だけは或る気の塊のようなものを感じて俯き加減に目を移した。と、ひとりの老人のおぼつかない足取りの背姿が見え、その左に和装の婦人が老人に付き添い手を添えていた。そして老人の歩みがつと止まったかと思うと、スローモーション映像のように右に体をぐぐっぐぐっと回し、わたしの視線のわずか数歩先にその老顔をあらわしたのであった。
服装はまったく記憶に無い。ただ黒っぽい影のごとき上に、彫りの深い老顔があり、爛々とした眼光が、会場の三百余名の会員に向けて放たれていた。わたしはその眼光を仰ぎつつ、思わず胸につぶやきが洩れた。これはいったい、何ものなのか。これが土屋文明なのか。人間とは、これほどの高みに到り得るものなのか。そしてこの感覚は、わたしだけの感覚なのかも知れないが、人間を越える精神をそこに見る思いがしたのであった。
まさにその人物こそ、土屋文明であったのだが、ほどなくしてきびすを返し、婦人に手を添えられながら壇上に向かった。わたしの胸の中では、先ほど間近に仰いだ師の眼光の輝きが強烈に焼きついていた。齢九十に近く、巨星の輝きをひときわ放つ精神を仰ぐ思いであった。
こうした、遥かに仰ぎ見るべき文明ばかりでなく、身近に親しく感じられた面もある。二日間にわたる歌会の中で、「生きるうえでわたしほどに苦しんだ者はいないだろう」と述べたこと。会の合間の昼の喫茶店で、偶然にも席を間近にしたこと。会終了後の夜の懇親会での温顔など。土屋文明の素顔を見る思いであった。
その後わたしは師の選による読売歌壇に投稿をするようになり、心のこもった選評を数度いただいたことも、わたしの人生においてはささやかながらも、かけがえのない経験であり、感謝すべき思い出として残っている。
ところで誤解のないよう、書き添えておかなければならない。わたしが文明師をこの目で仰いだのは、その折だけのことであり、ましてやじかに言葉をかけてもらったわけでもない。ふだん直接文明師と交わる機会のあった人々からすれば、体験の内にすら入らないのかも知れない。しかし、わたしにはそれで十分であった。
わたしにとっては、盛岡の会の人々との交わりが最上のものであったし、その上での文明師との出会いは、ひとりよがりな表現になるが、精神において真剣白刃の一瞬の立会いを見届け得た、というほどの体験であったのである。これ以上に、望むところはない。

もし短歌との出会いがなければ、わたしの青春をこのように書き残すこともなかったであろう。

……十二月十一日、朝十時半。妻が散歩から戻ったので、いつものようにコーヒーを煎れようと台所に立ったとたん、頭が痺れ、その場に倒れそうになってしまった。数瞬間のことであったけれど、なんとも気味の悪い思いがして、居間でしばらく横になっていた。ここ数日、身体が異常にけだるく、ひととき心臓が強くあおったり、頭のふらつきが日々続いていた。
横になりながら、脳梗塞の前兆であろうか、心臓の発作に襲われるのであろうか、などと不安に陥ってしまい、心が病に支配され縛られている感覚であった。そんな気持ちの中でなぜか、今朝の窓から仰いだ裏山のクヌギの黄葉が思い出された。曇りの空に枝を広げ、そこだけ朝の光を浴びて輝いている。美しいものだなと、しみじみと仰ぎ眺めていた。青春の頃も、老いて病む今も、そうした感覚だけは変らない。……

(2013.12.11脱稿)

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追記

夢を見た。美しい夢を見た。こんなにも美しい夢を見たのは、久しく無かった。夢の中でわたしの心は踊り、夢の世界に永遠を感じていた。夢でこのように心が満たされるのは、何年ぶりのことだろう。老いて病んで不安な日々を送る今のわたしにとっては、まるで天上からのプレゼントのように思われた。それは覚めれば霧と消え去る儚いプレゼントであったけれど、いくひらの夢の断片だけは残してくれた。

わたしは丘のふもとの分かれ路に立っていた。友がどこかで待っている。わたしはどちらの路を行けばよいのだろう。右はす向いの路は丘の上へとつづき、左はす向かいを行けば、路はふもとを曲がり彼方に隠れている。わたしはほんのしばらくためらい、丘の上へとつづく路をのぼった。
友はどこで待っているのか。もう顕われてよい筈なのに。この路ではなかったかも知れない。夢の中でわたしは少しいらだち、長い長いのぼり路を踏みしめた。単調で、ともすれば藪なかに近い小路をゆき、やがてわたしは、丘のいただき近くにのぼりつめた。広い空の下、淡い黄の色の草丘がなだらかな起伏をなしている。わたしはめぐりを遥か見渡したが、友の姿はなく、わたしひとりだけが空と地との境に立っていた。

その丘は、いつしか雪の丘へと変っていた。まっ白な雪がふくらかに積もり、光のなかでいち面に輝いている。雪の丘の連なりは、遠く近く白い山岳をのぞみ、気がつけば、遥か眼下には凪わたる青い海が見える。わたしはすっかり楽しくなり、軽やかに歩みをすすめた。身体の感覚はまるで無く、心踊るわたしの魂だけが宙をゆく感覚であった。
明るく耀う白い雪の路を行くと、右に左に木立の若葉があらわれた。その若葉は宝玉のエメラルドの光を放ち、透明な風に小刻みに揺れている。なんという美しい世界だろう。白い丘、白い山岳が光る空と溶け合い、わたしは永遠の喜びそのものとなり、宙を舞い、歩んだ。

わたしは海に向かって、雪の山岳を下っていた。なだらかな丘は、いつしか切り立った岩の壁と変っていたが、それでもやはり、白い雪の輝きは夢の中の風景を明るく包んでいる。眼下の海は、透きとおった淡い瑠璃色の水をゆたかにたたえ、ちいさな妖精たちが群舞をなしているかのように、波が光りながら揺れていた。

雪の岩の波打ち際にわたしが下ると、そこには妻と友が居て、わたしたちは喜びの声々を交わした。妻と友の姿は霧のように思われたけれど、たしかに、わたしたちは喜びの声々を交わした。
ふと気づくと、雪の岩には大きな蝶が幾ひらも幾ひらも止まっている。どれもが淡いオレンジの色の羽を立て、そこがまるで彼らの楽園でもあるかのように、光のなかに憩い留まっている。わたしは近づき、妻と友に声をかけながら、しげしげと蝶たちを見た。そしてふり向くと、入り江には透明な淡い瑠璃の海をはさんで、広やかな空のもと、大きな聖堂のように白い島がやわらかな輝きを放っていた。

(2013.12.22冬至暁前の夢)

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