AOZOLA

T・SANO

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短篇 AOZOLA

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ある者たちはイエズスにつばをはきかけ、また目隠しをして、こぶしで打ち、「予言者ならば、言ってみろ」と言いだした。

(マルコによる福音書14章65節より)

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勤めだして三ヶ月になる。職場にはまだ馴染めない。鉄格子と鉄扉で閉ざされた病舎の中で、患者を相手に日がな一日暮らしている。
仕事らしい仕事といえばたいていは失禁者の下の世話で、例えば老人か誰かが廊下で小便を垂れたとする。ぼくは彼の前に屈み小便を拭く。或いは大便を垂れる。ついでにそこらの壁に塗りたくる。そんな時は湯を湿らせたおしめで拭き取ってやる。もうぼくの白衣までが臭くなり、ひどい時には、髪にまで臭いがこもっているような気がする。
黙りこくっている患者に声をかけたり、虚ろな顔の若者をピンポンに誘うのも、仕事のひとつだ。小さな白球が、卓球台の上を緩慢にゆき来する。少々間の抜けたその軽やかな音の繰り返しの中で、ぼくは壊れかけた時計の一部になったような気がする。
話を聞くのも仕事だ。ぼんやりと窓辺に腰をかけていると、きまって誰かが話しかけて来る。「ちょっといいですか。・・・雪を見ているんですか」外に目をやりながら、彼はぼくの傍らに腰を下ろす。ガラス戸を透かし、鉄格子の向こうでは、重っ苦しい三月の曇り空と深く積もった雪野原が、はるか彼方で暗い灰色に霞み、茫茫とひとつに溶け合っている。
「いつまで経っても、解けない雪です。この冬は雪が深いです。・・・看護人さんはどこから通って来なさる。町の方から来なさるか」
最初はぼくのことを尋ねる。けれどそのうち、彼は自分のことを語り出す。細君への不満をぶちまける。自分がこうなったのも、と彼は言う。そりゃぁたまには殴りもしましたが、とも付け加える。ぼくはどう答えてよいか分からない。
「とにかく、叩くのは良くありませんね。・・・」と言う。
澱んで濁った空気が目に見えるようだ。みんなの吐く息が混じり合い、閉ざされた病舎の中をゆらめいている。彷徨する魂たちが、すすけた壁や天井に、たばこの脂がこびりついたガラス戸に、だらしなくぶつかってはまた空中を漂う。ぼくはそれら濁った空気や魂を吸う。だからきっとぼくの内臓は不健康で、ぼくの体は悪臭を放っているにちがいない。口から鼻から、腐り始めた肉の臭いが洩れ、黒ずんだぼくの魂といっしょに、ふわりふわりと飛んでゆくのだろう。
入浴の時間。午後の一時半から三時まで。週に二回。雪に篭る憂うつで単調な毎日の中で、パアッと花火が打ち上げられたような時間。五十人を越す患者たちが、入れかわり立ちかわり狭い風呂場にひしめき合う。それは、薬でふくらんだ男たちの裸の饗宴だ。もうもうと立ちのぼる白い湯気。高らかにひびく湯水の音。声と声、赤く上気した肌と肌。お祭りみたいだ。
「入浴時間、入浴時間ですよお」
ぼくは病舎内をふれ歩く。これも仕事だ。風呂嫌いな男がいる。衣類はもちろん、鳥の足みたいな指の間に、黒々と垢をためている。風呂に入りなさいと言うと、ちらっと、陰気な目付でぼくを見る。が、とにかく風呂には入る。けれど石けんは使わない。出てきた時にはその垢が湯でふやけている。まあいい。風呂に入るよう注意はしたのだ。彼に厭味のひとつも言って、ぼくの義務はおしまいだ。
介助が必要な失禁患者や老人は、いちばん後に入る。それまでの間、一時間位だがぼくは病舎内をぶらつく。出会う患者に意味もなく話しかける。「いい湯でしたか」「今、空いていますか、混んでいますか?」「そろそろ入ったらいかがですか」或いは部屋をのぞいて見る。昼間から寝ている患者を起こす。風呂場をのぞく。ホールのテレビを見る。患者が笑えば、ぼくも笑う。何の意味もないのだけれど、まるで患者の一人みたいだけど、これも仕事だ。ぼくは決して、詰所の中に居ることはない。実を言うと、他の看護者とはうまが合わないのだ。まだ慣れていないせいかも知れない。
その日の入浴時間のことだ。ぼくはいつもの通り病舎内をぶらつき、そして、入口際にある風呂場の前で何気なく腰を下ろした。ホールの向こうには詰所があり、中の様子が遠く小さく見える。看護婦たちが事務用テーブルをはさんで座り込んでいる。たぶん雑談でもしているんだろう。窓外の冬景色を眺めながら、ぼくはしばらくぼんやりしていた。
と、どこからか人々の騒ぎ立てる声がかすかに聞こえた。耳を澄ますと風呂場の中から聞こえる。怒鳴っているのか、はっきりはしない。だがほんの数秒ののち、一層高くなった声で明らかにケンカ沙汰にでもなっていることが分った。
ほとんど反射的に椅子から立ち上がり、ぼくは更衣室のドアを開けた。目の前に男たちの人垣があり、重なり合った彼らのこんもりとした肉の背が、ぼくのいきなりの侵入を拒んでいた。その向こうの浴室内では、幾人かの放つ罵声ががんがんと響いている。ぼくは人垣となっている肉の塊の中に、分け入り、押し分け浴室内に入った。
ぼくの目に飛び込んできたのは、まず最初、濡れたタイルの上に仰向けになって倒れている老人であった。そして老人を取巻き、足蹴にしている数人の男たちだった。彼らはおそらくぼくの姿を認めたにちがいない。罵声が止み、その行為が瞬間ひるんだかに見えた。
正直なところ、その時ぼくの頭の中は空っぽに近い状態になり、少し安心さえしたのである。ぼくのなすべきことが見て取れたからである。
けれど、いざ止めさせようと足を踏み出した刹那のことだ。主謀格らしい一人の男が、まるで雷が落っこちるような大声を出し、思いっきり老人の腹に二三回蹴りをくらわしたのだ。痩せて青ざめて肋の骨もあらわな老人の腹に、男の赤らんだ太い足の踵がグワッグワッとめり込んだ。老人はぽっかりあいた黒い口から呻き声を洩らし、昆虫が仰向けになって四肢をばたつかせているように、その枯れた手足を虚しく空に漂わすのだった。もうぼくはどうしてよいかすっかり分からなくなり、情けない調子で「止めて下さい、止めて下さい」と、形相凄まじい裸の男に力なく手を延べるばかりだった。
「こいつが悪いんだ。こいつが入る番じゃないんだぞっ」
男はぼくを睨めつけ、ぼくなんかものともしないという具合に怒鳴った。なるほどそれもそうだなと、ぼくの心までが老人の手足みたいにばたつき始めた。
「済みません。今、ほかの人に来てもらいますから」
なにも彼に謝ることはないのだが、とにかくそう言って、ぼくは風呂場を抜け詰所めがけて走り出した。
その時ふいに、詰所の中の様子が遠く目に入った。看護婦たちが何だか笑いころげている。ぼくは我に返った。慌ててはいけない。こんなことぐらいで驚いちゃいけない。なにしろこんなところで働いている分には、太っ腹でなくちゃいけないのだ。
そう思い直し、ぼくは走るのを止め、できるだけゆっくり歩こうとした。つまり平静なふりをしたのである。そのとたん、ぼくの体が消えてしまい、ドックンドックンと高鳴る鼓動を、速いのか遅いのか分からないちぐはぐな足の動きが運んでいるという、奇妙な錯覚に陥った。人間ではなく、お化けのようだった。病舎のホールをすっ頓狂なお化けがあたふたとゆくのに似ていた。詰所の戸を開けると、ぼくの顔がゆがんだ。なんと、ぼくの顔が笑いながら口を動かしたのである。
「あのぉ、風呂場でちょっとしたいざこざがありました」
みんながほとんど目だけを動かしてぼくを見た。それまで笑い合っていたため顔は笑っているが、目付きだけは異様な光を帯びている。それらの目を見た時、ぼくはやっと正気に戻った気がした。
じっとぼくを見つめる幾つかの目。誰もなんとも言わない。仕方がない。ぼくはぼそぼそと事の成行きを話し出した。するとどうだろう。みんなは目をそらし、今度はそ知らぬふりさえし始めたのだ。そこで尚のことぼくの話はしどろもどろになった。テーブルの上の菓子鉢、湯呑み、盛られた蜜柑が、白々しい看護婦たちが、熱い涙の出そうなぼくの目の中で濡れて霞んだ点滅をくり返した。
「それであんた、どうしたのさ」
話し終えると、四十がらみの主任看護婦が手にした蜜柑の一粒を口元に寄せながら、上目使いにぼくをにらめつけて言った。
「はあ、一応は止めましたけれど」
看護人のひとりがふっと笑った。それを見た看護婦が、といっても七十に近い老婆だが、んだばよかんべっちゃと、方言そのもので言って笑った。鵞鳥が鳴くような声だった。みんなが笑った。しょうがないからぼくも笑うことにした。
「はい、ご苦労さんでした」
突っ立っているぽくに、看護長が言った。メガネをかけた爬虫類が、ヘラヘラと笑っているみたいだ。何となくその顔を見つめていたら、いつの間にかほんとうにおかしさがこみ上げて来て、ぼくは腹の底から笑ってやった。
詰所を出た。笑うにも疲れた。どうでもいいのさ。そう思った。なのにどうしてか、ぼくの足は風呂場に向かった。
更衣室のドアを開けた。静かだった。数人の人影の間で、老人が濡れた体のまま下着をはき、よろけながらさらに衣服を身につけようとしている。呆けた頭には、先ほど腹に受けた痛みはすでに失せているのかも知れない。老人を足蹴にしていた男もいる。何事も無かったかのように、濡れて赤らんだ体をタオルで拭いている。薄暗い更衣室の低い天井に、ひとつの裸電球がぽつねんと点っていた。
腐りかけて汚れたドアを閉め、ホールの窓辺に寄った。ガラスに顔を近づけると、冷気が頬に伝わった。ぼくの吐く息が、ぼんやりとした白い小世界を、薄っぺらな玻璃の上にたまゆら宿らせた。その向こうに、雪と雲との茫茫とした灰色の世界があった。

五月。やがて半年が経つ。職場のふん囲気にはどうしても馴染めない。ぼくの気持ちは陰うつだ。だけど堪えるしかない。なにしろ暮らしてゆかなきゃならない。
春は美しい。とりどりの花が乱れ咲き、日を透かした若葉からは、緑の雫がしたたるようだ。ぼくの心はその滴りを嘗め、光を愛撫し、なまめく春の精と交合する。狂おしい快感が体の芯をつきぬけ、愉悦の波が引くと、もの憂い疲れと共に、ぼくの心はまたあの閉ざされた病舎の中に、沈んでゆく。
さわやかな朝だった。ぼくは初めて、患者のひとりに暴力をふるった。もちろん進んでやったわけじゃない。それは成行きというものだった。彼が薬を飲まないと言い張ったのだ。薬を飲まないというのは、ぼくらの立場からすれば最大級の反逆を意味していた。・・・立場だなんて勝手な言い種だ。ぼくは知っている。薬のせいで余計におかしくなったり、夜のうちにぽっくりと死んでしまった何人かをだ。でもしょうがないだろう。彼らは元々おかしかったのだし、きっとそうなる定めだったのかも知れない。それに薬のせいだなんて、誰が証明できる? まあそれはともかく、薬がたとえ毒であろうと、患者にはそれを飲み干さなければならない決まりがあった。これに反する者には、容赦のない制裁が加えられた。というわけで、彼の場合もご多分に洩れず、という具合だったのだ。
仮にKとしておく。Kは四十を少しこえた小柄なアル中患者である。ひ弱な体つきの半面、妙に口達者な所があった。しがない土工として各地を転々とするうちに、いわぱ保身の術といったものが自ずから身についた結果なのであろう。妻子はなく、定職についたこともなく、坊主刈りで、二の腕に某女命などというちゃちな刺青をしていた。
Kは自分から進んで入院した位だから、当初は世話の無い従順な患者だった。ところが一日経ち二日経ち、薬の効き目があらわれる頃になると、これはどうもおかしいと思い始めた。
食欲がない。一日中眠い。起き上がると体がぐらぐらする。医者に相談したくても医者はいない。歳取った看護婦に用心棒代わりの看護人がいるだけだ。目に入るものは、鉄格子、鉄の扉・・・。
Kは不安になる。初めて入院した患者にはよくあることだ。そこで彼はおどおどとこう訴えた。
「頼みがあるんだがねぇ。薬を飲むと、どういう訳か体がおかしくなるんだ。俺には合わねえ薬なのか、それとも量が多すぎるのか、そこんところを先生に聞いてみてえと思ってね、一度会わしてやっちゃあ、もらえねえかなぁ」
ところが看護婦ときたらこうした訴えには手馴れていたし、それに小柄で気の弱そうなKをまるっきり舐めてかかった。
「そりゃああんた、自業自得ってものだよ。ろくに仕事もしないで酒ばかりくらってた人間が、とたんに酒をやめてごらんよ。体が変に感じるのも当たり前でしょうが。誰だって最初はそうなんだ。部屋に帰って寝てるうちにゃあ、治りますよ」
「へえ、そんなものかねぇ・・・」
Kにしてみれば引き下がるしかない。
しかし三日四日と経つにつれ、Kの状態はいっそうひどくなった。便所へ行くにも、まったくのちどり足で壁に伝いながらである。辿り着いたところで満足に小便もできない。あちらへ漏らしこちらへ漏らし、ついでに自分のズボンも濡らすという有様だった。普通、こんな状態になればたいていの患者は思考力も落ち、看護者の操り人形になってしまう。が、Kはちがった。急速に駄目になってゆく自分を意識し、必死でそれに堪えているといった風だった。
Kは幾度も訴えた。だがその度になんなくあしらわれ、黙殺されるだけだった。そこでついに、Kが反抗を決め込んだ朝がやって来たというわけだ。主任が書いたカルテには、ごく簡単にこう記されている。
「八時少し前、詰所にて服薬を拒否。説得にも応じようとせず、反抗的な態度をとる。八時十五分頃、再三の看護者の注意に突然暴れ出したため、止むを得ず、看護者数人にて取り押さえ、服薬させる。以上。八時半、日勤者に申し送る」
それはちょうど、ぼくが夜勤明けの朝だった。夜勤は二人で組む。相手は例の主任看護婦だった。
夜勤明けの朝は、慌しいの一語に尽きる。もっとも慌しいのは看護者の方で、五十人を越す患者たちはまことにのんびりしている。のんびりしているからこそ、ぼくたちは彼らをせき立てなければならないのだ。五時半の検温に始まり、六時起床、洗面、体操、清掃、食事、投薬、カルテ記載へと続く。カルテ記載を終える頃には、すでに八時を過ぎている。すると日勤の連中がぽつりぽつりと姿をあらわすのである。
その朝の投薬時間、ぼくはいつものように投薬箱を前に腰をかけていた。プラスチックのコップに水を満たした患者たちが、次々と詰所の中に入りぼくの前に立つ。薄っぺらな薬包紙をかざし見て、注意深くその中味と量を確かめる者。こっそりと口に含んだままむっと口をとがらし、詰所を出ようとするとんまな患者。かと思えばガラガラとうがいをするような音を立て、これみよがしにごっくんと飲み込む患者。うまそうに飲む者、いやな顔をする者。飲んだあと、ごちそうさんでしたと言ってペコリと頭を下げる者。ぼくにさえ分からないように、どこかで薬を吐き出すずるい奴。まったくさまざまだ。
ぼくは投薬箱が空になるのを待った。待つだけ待って、とうとうKの分だけが残った。ホールを見渡してもKはいない。彼の部屋に行った。畳の上にちょこんと座ったKが居た。薬を飲みに来て下さいと声をかけると、小さな丸い背をぼくに向けたままKは無言でいたが、やがてよろよろと立ち上がり、今行くよと呟くように言った。
詰所に戻り、Kを待った。
「誰なの?それ」
向かいの事務机でカルテを記載していた主任が聞いた。Kだと答えた。「ちゃっ、分かんねぇ奴だ」ぼくをにらみつけて彼女が言った。よくにらむ女だ。どうしてぼくをにらむんだ。
話は変わるが、ぼくは彼女が嫌いだ。横柄な女で、平気で患者たちを呼び捨てにする。そう言えば、ぼくはこの女から名前を呼ばれたことがない。いつも「あんた」で済まされている。それに彼女は異常に肥っている。なんでも、子宮を手術して以来だそうだ。この女が、看護婦の中では一番若い。全く何てことだ。ちっ、話がそれた。
しばらくして、しょぼくれた顔のKが来た。おぼつかない足取りで歩を進め、テーブルの上に、黄色のコップをコトリと置いた。手を垂らし、背を丸め、腰を屈めているKに、ぼくは黙って薬を差し出した。わずかな間を置き、それを取ろうとKが腕を伸ばしたその時だった。
「ちゃんと飲まねばっ、だめなんだよ」
いつの間にか彼の傍らに立った主任が、大きな腹をむんと突き出し、鋭い口調で言った。ぼくの見た分では、おそらくこの時からKは心を決めたにちがいない。それはまさに、彼が机の上の薬を取ろうと腕を伸ばした数瞬のことだった。(もっとも、いつかはこういう時が来たんだろうが)
Kは主任の言葉に応えることなく、のろのろとした動作で薬包紙を手にした。手にしたまましばらく無言でいたが、やがてろれつの回らない舌でぼくに向かってこう言った。
「こいつを飲むと、体が変になるんだなぁ。あんたどう思うね。薬ってのは合わねえやつを飲むと、かえっていかれちまうんじゃないかなぁ。何度も言うようだが、いっぺん先生に会って確かめてえんだ」
Kの主張は筋が通っている。が、それは無理な望みというものだった。ぼくは困った。ぼくに言われてもしょうがない。けれどKがぼくに向かって言った以上、ぼくは彼に答えなきゃならない。
「そうですねぇ、副作用ということも・・・」
「そんたらことは、ねぇっす」
主任がぼくの言葉をピシャリと遮った。
「先生があんたに合うように、ちゃんと処方したのっす。あんたが心配することはねぇっす」
「けどよお、現に俺の体がおかしくなってるんだ」
Kのほこ先が彼女に向けられ、そしてこの時点から、医者に会うまでは絶対に薬を飲まないという、彼の反抗が始まったのである。
ぼくはむしろKを案じていた。彼が手を上げる筈はないとなぜか確信をしていたし、とどのつまり彼がどうなるか分かっていたからである。
ホールの向こうの鉄扉が開き、日勤の老看護婦が二人入った。ぺちゃくちゃしゃべりながら詰所の前まで来ると、中の様子にとたんにだんまりを決め込んだ。しばらくしてまた鉄扉が開き、こんどは河童がするりと入った。かっぱというのはあだ名である。歳は二十五六。ひょろっと背が高く、逆三角の顔の上にすげ笠のような髪がのっかっている。ただしめぐしさからは程遠い。顔の真中に、大きな鼻がどっかりと腰を下ろしている。これで用心棒代わりの看護人が二人になるわけだ。いやな予感がぼくの胸をよぎる。
主任とKとの応酬をぼくらは見守った。看護婦たちは、そ知らぬふりを装い茶の準備をしている。かっぱは薄笑いを浮かべて二人を見ている。Kは自分の主張の正当性を、哀れにも調子づいてしゃべっている。
やがて主任が、どうにもならないと見て取ったのか、ぼくの際に後ずさりをした。そしてかっぱに目配せをし、Kを指して軽く顎を動かした。Kは何のことか分からずきょとんとしている。かっぱがにやにや笑いながらKに近づいた。ほんの瞬間のことだ。間を見計らったかっぱが、突然Kの細い首をわし掴みにし、太い声で言った。
「ここをどこだと思ってる。病院だぞ。薬を飲むのは当たり前だろ。ええ、文句あるのか」
首を掴まれたKは、声をつまらせ宙吊りの姿でいた。かっぱがKの首をぐらつかせ、放り投げるようにして押した。Kの体が他愛もなくよろけ、テーブルを打ち椅子に足をからませた。黄色のコップが水をこぼし、カラカラと床に転がった。
「あんたっ、何してるっす」
むちでひっぱたくみたいな声を出し、主任がこぶしでぼくのわき腹をこづいた。この女にぼくはむっとした。けれどその時、かっぱにやられてよろよろと倒れかかったKの頭が、ちょうどぼくの目の前に来た。ぼくはむっとした分だけ、Kの坊主頭を思いっきりひっぱたいてやった。手がビンときた。瞬間、人を叩くのは痛いものだなと感じた。ついでに、テレビで見るボクシングのまねをして腹にこぶしをくらわしたが、あまり手ごたえはなかった。再び瞬間、人を殴るのはなかなかうまくいかないものだと思った。
ほとんど倒れかかったKの横から、かっぱが体ごとぶつかった。もつれたKの体がとび、グォンッと壁に頭を打ちつけて倒れ込んだ。Kはいも虫のようだった。横腹に背に、かっぱの蹴りがとんだ。ぼくもひとつふたつ蹴ってやった。けれどかっぱの足が邪魔でうまい具合にはいかなかった。何ぶんにもコンビネーションが必要なのにちがいない。
と思ったその時、誰かがふいにKの腕を取り、抱き起こそうとした。「おやじ」というあだ名の看護人である。今しがた出勤してきたばかりなんだろう。彼はKが中腰になるまで抱き起こすと、余裕のある仕種で突然投げを打った。Kのねじれた体が、低い位置で宙に舞った。顔と頭が床にぶち当たり、だらりとした足が空を切った。あお向けになったKの腹に、顔面に、おやじとかっぱの足蹴りの雨が降った。Kは細く白い腕で頼りなく身をかばいながら、血だらけになって床の上をただうごめいているばかりだった。ぼくの出番など、どうやら失せてしまった。
結局、Kはぼくら?の制裁を受けた後、かっぱに胸ぐらを掴まれながら薬を飲んだというわけだ。おやじは彼の坊主頭をこづいてこう言った。
「調子にのるなよ。どういうことになるか、これで分かったろう」
もちろんKは、へえ分かりやしたと、血のついたでこぼこの顔をわずかにたてにふるしかなかったのである。それにしてもなぜ、おやじは彼をやっつけたんだろう。
看護婦二人が、といっても例の老婆だが、Kのけがの治療に当たった。主任は椅子なんかを整え、カルテの記載に取りかかった。ぼくは床の上の血を拭いた。血のりのへりがこびりつき始めていたので、脱脂綿に水を含ませた。かっぱとおやじは、もうひと仕事済ませた気分でいる。
Kを部屋に戻すと、看護婦たちがそそくさと茶を入れ、まあ一服すべえとぼくらにすすめた。おやじとかっぱは、それにぼくもだが、ちょっとした英雄になった。誰もがゆったりと腰を下ろし、変になごやかなふん囲気だった。
「あんたも、そろそろ一人前になってもらわねば」
主任がぼくにそう言いながら、フォッフォッフォッと巨体をゆすらせて笑った。
「おめえ初めてかい。だば、ちょうどええ加減の相手だったべよ」
かっぱの言葉に、ぼくは頭をかきながら、はあと答えた。おやじとかっぱが目を細め、タバコを深く吸い実にうまそうにのんだ。タバコの吸えないぼくは、しょうがないからお茶をうまそうに飲むことにした。渋い味がした。

自転車に乗り、ポプラ並木の下をゆく。朝の風にさやぐ葉が透き通った夏の光を返し、キラキラキラと輝いている。ポプラ並木の堤の道を、中古自転車のペダルを踏んで、あちらを見たりこちらを見たり、すっかり疲れてぐらぐらする頭で、ぼくはゆらりゆらりと家路を辿る。
耀う川の向こうには、緑の胡桃の森があり、赤いトタン屋根の家が見え、青いトタン屋根の家が見え、こんもりとした山が連なり、白い雲があり青い空があり、ここはまるで童話の世界だ。
こんな時、ふいにぼくは泣きたくなるのだが、そいつは昔からの感傷癖のせいと、そして何よりも若さのせいだ。目に見える何もかもがあまりに美しく、楽しさと悲しさがごっちゃ混ぜになって、空を仰いで声なく笑うと、情けないことに涙がこみ上げてくる。ここはいったい、どこだ?
あの事件以来ぼくは変わった。かっぱやおやじが、なぜか親しく感じられるようになった。年寄りの看護婦たちも、もうぼくのことをバカにはしない。純情だとかうぶだとか、あんたはまじめだと言って笑ったりはしなくなった。淫らな冗談が交わされる時など、ぼくはより以上のあらわな言葉を吐いてみんなを喜ばせる。言葉使いも少し粗くなった。要するに、ぼくはみんなの仲間になったのである。
病舎でのあい変らずの暴力沙汰にも、ぼくは手慣れて来た。ついこの間は、Y市の会社社長の息子が入院したというので、みんなで示し合わせて懲らしめてやった。ああした手合いの人間はとかく甘やかされて育っているから、一度やきを入れるに限るのだ。例によって、次の日顔全体が紫色にふくれ上がるまで、ぶん殴ってやった。もちろん、「服薬拒否、逃走企図、看護者の注意に突然暴れ出し、云々」といった正当な理由はある。
患者たちも、こんなぼくには一目置くようになった。しかし正直言えば、ぼくはまだチンピラ程度だ。少々頭の足りない奴とか、気弱そうで体のあまりでかくない奴とかが、いい相手である。異常性格のアルコール中毒者や、覚醒剤中毒の男などになると、とてもぼくの手に負えるものじゃない。そんな空恐ろしい人間どもは、かっぱやおやじや、その他先輩諸氏にまかせることにしている。もっとも実際のところは、先輩といえども彼らには手が出せないみたいだ。
目がしょぼしょぼして、どうにもならない。頬をさわるとすっかりこけている。昨日の朝から今朝の八時半まで、日勤夜勤と続いてそれでまた、午後の五時から夜勤に入る。まあ家で休む時間といえば、せいぜい五、六時間程度である。たまったものじゃない。心臓が妙な具合で動いているし、神経が過敏になっていて、こんな時は、眠いのだけれど眠れないのだ。それでいつも、酒を飲んでは無理に眠る。だいたいが変則勤務の連続なので、ぼくの生理そのものがどこか狂っているように思われる。いつかかっぱが言っていたのだが、精神科の看護人は、つまる所精神病者になるのだそうだ。まさかそんなことはあるまいが、あながち見当ちがいな言葉とも思われない。
それにしてもどうだ、この朝の日の輝きは。ぼくの自転車が、光の海に漂っている。はっは、たまらなく愉快ではないか。うん、ところで中古の自転車を買ったのは、支給されるバス代を浮かすためだ。二ヶ月で元をとり、それ以降は得をする勘定である。なにぶんにも安い給料で妻と赤ん坊を養っていかなきゃならない。一往復何百円のこととはいえ、バカにはならないのである。それともうひとつ、閉じ込められることには、もううんざりしているのだ。精神科病棟だけで十分なのである。バスなどには乗る気もしない。ぼくにとってバスとは、動く箱にすぎない。そう、箱なのである。
ポプラ並木の堤を抜けて、また埃立つ自動車道を行き、町のはずれの家に着く。とはいえ、なんの変哲もないアパートだ。そら、町のどこにでも見られる、あの木造二階建てづくりの代物だ。その一階の或る部屋に、ぼくらは住んでいる。通りから離れているため、静かではある。けれど、人の目がいけない。部屋の真向かいに大家さんの家があり、屋敷とアパートにはさまれた空き地が路地になっている。ちょくちょく人が通るのだ。窓を開け放していると、どことなく覗かれている気がする。これがどうも苦手である。つい先日も、若い男が窓から首をひょこんと出して、旦那さんだんなさんとぼくを呼ぶものだから誰かと思ったら、M新聞の勧誘員だった。こんなことが、実際よくあるのだ。小市民的な感情としても、やはり庭付きの家はいい。おかしな話になった。
ぼくが帰ると、妻は待っていましたとばかり、買い物に行くからとアパートを出た。行くがいいさ。ちょうど良い。赤ん坊はタオルケットの上で眠っている。いや眠ってはいないが、まあ眠っているようなものだ。生まれて三ヶ月だ。早速、酒でも飲むとするか。それにしても、朝っぱらから酒を飲んでいるところなぞ、人に見られてはたまらない。それで夏であるというのに、ぼくは窓の障子をほとんど閉め、無理やり眠るために酒を飲みだした。
ぐびりぐびりと酒を呑む。疲れて酔い加減の頭に、やがてたわいない思いが湧く。若いのだ。ひとり夢心地になるのも良いではないか。ぼくの青春は、どうせ幻想の中にしか、無いのである。現実はどうだ。えっ?
ふと思うのだが、ひょっとしてぼくは、定めという箱の中に閉じ込められているんじゃなかろうか。それもずいぶんと窮屈な箱にである。狭くて、薄暗くて、小汚く、どこか湿っている感じの箱。ぼくの人生を閉じ込めている運命という箱。けれど、この箱の中には光の差し込む小窓があって、かすかな希望をぼくにいだかせる。ぼくは折にふれ、小窓から外の景色を眺めては、感動をし、また悲しくため息をつき、或いは笑いほうけ、そして時にはいまだ知ることのない広やかで美しい世界を想像し、ひとり涙を流すのである。
今ぼくは、この小窓から外を眺める。四角い風景の中を、透き通った夏の風が吹き抜けてゆく。ゆたかな川の流れと、そびえるポプラと青空が見える。堤の道を、自転車に乗った若者が、遠く小さく見える。あの楽しげな若者は誰なんだ。目をこらし見る。どうやらぼくらしい。はっは、あれはぼくじゃないか。ぼくは嬉しくなり、口を大きく開け手まで振りながら、おおいおおいとぼくを呼んだ。向こうのぼくも気付いたようだ。なつかしげに手を振っている。手を振っているではないか。ぼくの目から涙があふれ、風景がかすんで揺れた。ああ、こんな悲しみには耐えられない。ねえ皆さん、そうじゃありませんか。
酔い果ててこんなばかげた一人思いに耽ってはいたが、いつか青い砂がちらちら降って、ぼくをしびれるような眠りに誘った。
ほんの少し眠ったにちがいない。赤ん坊のぐずり泣く声を聞いた時、幻聴かとも夢かとも思った位だから。そのくせ一瞬の後、ぼくは現実というものを叩き付けられた気がした。翳みがかかった脳内を、錐でひっかかれる思いがした。どうしてまた、このような時に泣き出すのか。ぼくは眠らなければならないのだ。もう少し待て。すれば、お前の母親が帰って来るではないか。泣くのは止めろ、泣くのは止めろ。そう念じながら赤ん坊を見た。
正直言ってその時、ぼくの心の底には、赤ん坊に対する嫌悪感が淀んでいた。ぼくの子供というより、むしろ大きな幼虫という感じであった。赤らんだ顔の幼虫が、変な声を出しながらタオルケットの上でグニャグニャとうごめいているのである。なんだなんだ、このまま泣き込まれたのでは、ぼくが眠れないではないか。まてよ、それともおしめを濡らしただけなのかも知れない。ならば取りかえるまでだ。近づいて、ぼくはおしめに触れてみた。ちっ、濡れてないじゃないか。しょうがない。この小憎らしい奴を、今はあやすとするか。といって、いったい何をしたらよいのだ。
どうしたんだ、えっ、どうしたんだ?くだらない言葉をかけてはみたが、むろん相手が応じるはずもない。それどころか、ぼくがまごまごしている隙に、とうとう本格的に泣き出す始末である。ぼくはすっかりなめられた気がした。この野郎、腹は立つが、しかしここはひとつ、笑顔であやすしかない。赤ん坊をふんわりと抱き上げて、さあいい子だからもう泣くのは止めなさいと、大きくあっちへゆすりこっちへゆすり、また小刻みにふるわせて見よう見まねの抱っこを試みた。
が、思えば、ぼくの抱っこぐらいじゃ赤ん坊が泣き止むわけもない。赤ん坊は執拗なぼくの努力にもかかわらず、それどころかお前には負けないぞとばかりに、口をぐぁんぐぁんと開けて泣き続けるのであった。
「静かにしろ、他所に聞こえるじゃないか。泣くのは止めろ」
言葉をきつくし、声を押し殺し、今度は威しにかかった。路地が気になった。窓のガラス戸を閉め、障子戸を閉めた。
空気の流れが止まり、薄暗くなった部屋の中で、泣きわめく赤ん坊と、赤ん坊を抱いて突っ立っているぼく。変に静かな気がした。天上を仰いだ。目眩がした。部屋の壁、鴨居が妙に目に付く。心が乾き、体が消えた。ぼくは声の無い叫びになった。そう、怒りの瞬間って奴だ。
心を決め、畳の上にそいつをポイッと放り投げた。たちまちひどく泣き出したがかまうことはない。そいつの上に馬乗りになり、もっともつぶれないように尻は浮かしていたが、二三発、平手で頬を思いっきりぶってやった。ちょうど、ゴムまりを叩いたような感触がした。
ぼくはそいつに世間というものを教えたかったのだ。自分の思い通りにいかないこと。甘えは許されないこと。自我を通すと痛い目に会うこと。これらのことを、そいつに身をもって教えようとしたのである。ところがそいつは、このぼくの考えにいっそう反発するかのように、さらに声を高くして泣きわめいたのである。ええいっ、お前がその気なら、世間というものがどんなものか思い知らせてやるまでだ。そいつの挑戦に、ぼくは少しも驚かなかった。
この世は力だ。力こそすべてだ。お前がどれだけ泣きわめこうと、この力の前には屈服するしかない。ぼくは叩き続けた。さらにそんなに泣くなら口を塞いで泣けなくしてやると、鼻と口を手でおおった。赤ん坊の顔がぼくの手の中に沈み、のけぞりもがくそいつの小さな手足が、畳に低く空を泳いだ。
こんな分からずや、死んでもかまうものか。腐りかけた果実を握り潰すように、手の中の顔をぐいぐい押しつけてやった。
確かにその時、ぼくは赤ん坊が死んでもかまわないと思った。ぼくのせいじゃないのだ。ぼくはただ、世間がどんなものか教えてやろうと思ったにすぎない。この世は結局屈服して生きてゆくしかないのである。これが分からない奴は、死んだってしょうがないのである。たとえこの手の中の赤ん坊が死んじまったとしても、それは絶対にぼくのせいじゃない。ぼくをこんな箱の中に閉じ込め、・・・胸の中を言葉にならない言葉がよぎり、そやつのせいだときりきりとした狂気のうちに、再び叩いてやろうと手を離したその時であった。ヒイッと息を吸い込んだ赤ん坊の、直後に発した泣き声の叫びとも紛う異様さに、一瞬のうちガラガラと崩れるぼくの心を感じた。
地の底から響くとばかり、怨念の塊を吐き出しているようなその声は、太く嗄れていて獣ともつかず、まして赤ん坊の声などとは思われなかった。ぼくはおののき、我に返り、ふぬけた心と体を赤ん坊からのけた。そして、わずかに離れた位置でヘタリとすわり込み、しばらく哮り立つ赤ん坊を見ていた。
どれだけ経ったか、やがて波がすうっと引くように不思議に赤ん坊が泣き止むと、ぼくは力なく立ち上がり、にじんだ汗を感じながら、夢遊病者のように窓辺に寄った。そして、障子戸を開け、ガラス戸を開け放ち、窓辺に仰ぐ路地の上、屋根と屋根との間に、細長い夏の青空を見たのであった。






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