交響詩 山の週末
第一部 プロローグ
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過ぎし夢の日々(あとがきにかえて)


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作品集を編むうえで、これまでの経緯をごく簡単に、序文としてまとめるつもりであった。ところがいつの間にか、愚痴めいた文章が長々とだろしなく連なる結果となってしまった。これは、わたし自身の作文上の未熟さに加え、なによりわたしの人生そのものが、かつそれに対するわたしの意識がかなり錯綜していることに起因する。
思い切った省略も考えはしたが、わたしの意図するところは第一に生活の記録であり、結局序文から後記へと変更することとし、やや饒舌な文章はそのまま残すことにした。以下の文章が、それである。


過ぎし夢の日々(あとがきにかえて)

深夜うなされていたのか、ずいぶんと長い間、隣室のわたしの寝言が聞こえていたと、妻が朝食のさいに言った。その記憶が全く無いわたしは、ふーんそうかと答え、体調が良くなかったんだ、とだけつけ加えた。記憶は無いが、心当たりはあった。前夜から嫌なことばかり思われ、気分がふさぎ込んでいたのである。
二〇一四年三月一日、と、体力が続かずここまで書いて断念。翌二日、継いでこの文を書いている。現在の病状は次のとおり。心臓が時にじくじくとあおり、いつ発作が起こるのか不安に苛まれている。頭は重くどんよりと濁り、眩暈ほどではないがふらつきを覚える。身体虚脱感があり、一時間程度起居し三十分ほど横になる。これをくり返し、夕方五時頃には生理的に疲れきって床に臥す。だが臥してはいても、心臓の不気味なあおりにおそわれる時はおそわれる。さあ、発作を起こしてやろうか、起こしてやろうかと、まるで陰気ないじめをじくじくと受けているようである。なんとも嫌な気分である。わたしの心が、わたしの病む身体に支配されている。
去年の八月の心臓発作以来、もう半年を経ているが、望むほどには回復の兆しは無い。このように体調を崩し始めたのは、一昨年の秋。それからはすでに一年半近くになる。齢六十五。まだまだ若いつもりでいたのが、はやくも老病の死の淵に立たされている感覚である。つくづく不運な人生であるとも思われ、こんな嘆きに一昨晩はずっと囚われていた。
泣きたくなるのだが、泣きたくなるのは、わたしの身体のせいばかりではない。娘が、ここひと月ほどのうちに、めっきり歩けなくなったのだ。左半身が不自由な麻痺の身で、それまでは左のせん足を自らかばいながらなんとか歩いていた。しかしそのせん足がひどくなり、床につま先立つことすらできなくなってきたのである。本来ならば、こんな時にこそ、父親のわたしがしっかりと支えるはずであった。それが娘を支えるどころか、わが身すらおぼつかないありさま。今はすべて、妻ひとりに頼りきっている。なんともわが身がなさけない。こんな具合に日々を少しずつ書き継ぎ、……。
三月三日月曜日。妻が娘を連れて、整形外科の斉藤病院に行く。九時出発、十二時帰宅。せん足である左の足首は、歩くほどに腫れるとの診察結果。近々車椅子の使用はさけられない。今後はリハビリ程度の歩行にとどめるよう、通所施設にも連絡をしなければならない。施設の職員は、どうしても、がんばれ、がんばれと、無理に歩かせる傾向がある。言われるままに、娘も歩いてしまう。施設から自宅に帰る時には、ほとんどひとりで歩けなくなっている。とにかく、歩いていた娘が、確実に歩けなくなるのだ。妻の負担が増す。わたしより、四歳年老いた妻である。
夕食のさい、病院の帰りに妻と娘が買ってきた寿司を食べた。雛の祭りらしい、常よりは少しはなやかな食卓。妻と娘のたあいないはずんだ会話に、わたしは、相づちを打つのが精いっぱい。心臓がいやな具合にあおり、笑いを返せないのだ。夕食はたいてい、こんな調子だ。妻と娘の笑顔が、せめてもの救いである。
ああ、愚痴話ばかりが積もる。わたしがうなされていたその夜も、あれやこれやと悩み考え込んでいた。他人からすれば、そんなに心配をしても、と言われるかも知れない。確かにそうだ。考えても仕方の無い、そんなあれやこれやの思いが次々に湧いて、寝ていても夢のなかで、案じふさぎ込んでいたのだ。病む身体がわたしの心を蝕み、捉えて離さなかったのである。
心はどうしても身体に依存する。わたしができるのは、身体が少しでも良くなるように、努力することだけである。眩暈リハビリ、軽い筋トレ、今はたった千歩ほどしかできない歩行訓練、ストレッチ、そして食養生など。できることはなんでもやる。そして、無理をしないことだ。ほんの少しの無理にとどめることだ。そしてたまに訪れる小康状態に感謝しよう。苦しい時には、苦しむほかはない、堪えるしかない。世の中には、もっともっと辛く苦しい人たちがいっぱい居る。苦しい時には、そうした人々に少しでも心を寄せよう。
さて、命のあるうちに書き溜めておいた文章をまとめたいと、まず取り掛かったのは小作品集「AOZOLA」であり、継いで完成させたのは長編「傲慢」であった。いずれも青春の苦悩をあつかったもので、その主題故に最後の推敲をほどこすにさえ気分は沈みがちであったが、ともかく手間からすれば、ほぼ完成された作品に若干手を加えたというのが実際であり、比較的順調にまとめあげることができた。
そして今、わたしの目の前には瓦礫のごとき短歌メモの山がある。短歌については、「AOZOLA」の「後記にかえて」においてふれたとおり、わたしは貧しさ故に歌を捨て、自らの青春に決別をしたのであった。歌を詠むことは、もう二度とあるまいと、当時は思った。それが三十年を経た今、いつしか一万首をこえる短歌メモがわたしの目の前にある。
この心の変り様はいったい何に起因しているのか。ごく簡単にふれておきたい。端的に言って、それはわたしの生活の変化によるものである。先にわたしは、貧しさ故に歌を捨て、と書いた。わたしにとっては、なんの希望も見出せない貧しさであった。その貧しさから、わたしたち家族の生活は、ほんの少しだけ抜け出すことができた。決して豊かではないが、しかし貧しさにうちひしがれ、嘆き暮らすほどではなくなった。わたしたちに、思いもよらない幸福が訪れた。二十五年前のことである。
今からふり返ると、わたしたちの心は、まったく現実離れした世界に夢中になっていたような気がする。あるいは、気がふれていたようにさえ思われる。山を買ったのだ。貯えていたすべてのお金を投じ、借金までして、両親と共同で山を購入したのであった。奥三河の最南端の村にある、広さ四千坪ほどの谷山であった。当時わたしたちが住んでいた小牧市からは、車で二時間弱。実家のある豊田市からは一時間強の距離であった。
一般的な見方からすれば、わたしたちが或る大きな決断をなしたということになろうが、実際は少し異なり、そうした決断にわたしたちが追い込まれていったというに、近い。その心理的経緯の細部については、この小文ではふれられない。とりあえず単純に、都市部でのゆとりある住宅地購入をあきらめ、田舎での山林購入を選択した、とでもしておこうか。ともかく、山を買うんだという奇妙な高揚感に追い立てられるようにして、結果、気づいてみればかの谷山にわたしたちは立っていたのである。
美しい山であった。その山に魅せられ、その谷山に立つ時、わたしはかつて体験したことの無い幸福感に包まれるのであったが、しかし、わたしたちの生活自体は、必ずしも平穏なものではなかった。山を購入して数年後、山荘建築を契約した矢先にわたしが離職、金の工面に苦しみ、肝炎を患い生死の境をさまよったこと、無収入の年月。そしてこれらによる実家への転居、治り切らない身体のまま、弟の経営する会社で働き始めたことは、結局、肉親の力に頼らざるを得ないわが身のふがいなさ故のことであった。
ああ、思い出すだけでも気が滅入る。これ以上、嫌なことは書きたくもない。きりがないのだ。すべてはわが身から出た錆である。
三月十一日、なんて今日は冷たい日だ。日差しはあるが、風の冷たさは真冬なみだ。新聞やテレビは、三年前のあの日の特集を組んでいる。記憶がよみがえる。遠く東北の地に思いを馳せ、いくらかのの義援金を送り、わたしたちはかの地の人々の苦しみを語り合い、さりとて何ごともなし得ず、ただただ溜息をつくばかりであった。今でもそうだ。遠く離れたわたしたちには、重く漠々とした悲しみだけが、胸に漂うばかりである。
話をもとに戻そう。さまざまあったにせよ、とにかくかの山とともにあった二十五年は、おおむね幸福であった。やがて、仕事に差し支えのない程度に身体も回復し、わたしたち家族はささやかながらも、暮らしに平安を得たのであった。すでに初老と言ってよい年齢、わたしが五十歳にさしかかる頃であった。
記憶は定かではないが、この頃から数年かけ、わたしは長編「傲慢」の執筆に心を傾けた。そしてほぼ完成のめどがついた段階で、生じた心のゆとりからふと浮かんだのは、歌でも詠んでみようか、という気持ちであった。青春時代のような真剣な心持ではない。ごくごく軽く、言葉遊びでもする感覚であった。
とにかく気楽に、気ままに、思いつくままに一首二首と詠みすすめ、まるで子どもがちいさな安ものの玩具を集め楽しむようにして、わたしは短歌メモを残していった。うまいへたに拘らない、そんな楽な気持ちで歌を詠むのは、かつて味わったことのない、わたしにはとても新鮮な心の体験であった。
当初は、詠む対象についてはとくに絞り込んではいなかった。が、次第に、週末に訪れる山の自然風景が中心となり、加えて、その折々のわたしの心象のさまざまを詠むこととなった。そして年を経るごとに詠む数も加速度的に増してゆき、こうしておよそ十年の間に、一万首ほどの短歌メモが残ったのであった。
ところで、一万余の短歌メモは、決して多い数ではない。作品として残るのは、せいぜい二千首前後であろうかと、予想している。もともとは二万首をめざしていた。従来の体であれば、それくらいの数を整理・編集するのは、困難なこととは思われなかった。しかし今このような病む身となり、この程度の文を綴るにも苦しみながら日に数行、という身体になってみると、整理すべき一万余の短歌メモが、あたかも瓦礫の山の迫るごとく、わたしには思われてくるのである。
さて、歌をまとめ上げる経緯を簡単かつたどたどしくも書き終え、わたしは今(3.15)ほっとしている。あとは少しずつ、歌を整理してゆけばよい。楽しい思い出とともに、きっと楽しい作業になるだろう。無理をせず、少しずつ少しずつ、少々の文章も添えながら、進めてゆこう。作品名は、「交響詩 山の週末」とした。短歌と散文の交響する、詩的作品となるように意図している。三部作構成になるであろう。さあ、どんな作品集になるだろうか。たぶん、明るく美しい作品集となるにちがいない。


なつかしい山の週末……、過ぎし夢の日々……。(2014.5.3)



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